2018年4月16日月曜日

決してスタンダードを下げてはいけない

出会い系バーで少女達と出会っていたことを話す前川喜平・前文部科学事務次官のことがメディアを賑わしているようですが、私自身はその件に関しては「またか」程度の感想しかありません。

東大法学部卒の高級官僚が接待その他でいわゆる「イカガワシイ」店、例えばノーパンしゃぶしゃぶ(既に死語ですが!w<- p="">
しかし!それがシラフの時間に議論されるべき文教政策での話になると問題の根深さは変わってきます。理由は言うまでもなくシンプルで、それが国家百年の大計に関わってくる可能性がありますので。(馬鹿なオッサンの世迷い言が夜の巷の闇に消えていくうちは無視できるのですが。)

問題は週刊東洋経済4月14日号で、貧困対策の一つとして「高校中退をなくすには数学の必修を廃止するのがいい」と発言していることです。

これはいただけない。絶対に。

どんなことであっても、下にレベルを合わせて物事を進めていくと必ずや全体のレベルが下の方向に堕してしまうのは世の常で、合わせるのは必ず上の方向でなければならないと思います。
どんなに下に向けて全員が理解できるようにレベルを落としたところで、絶対に全員が理解できるコンテンツなどまずありません。解らない奴はわからないし、それが悪いわけでもない。残念ではありますがそれこそが正規分布というもののまっとうな姿です。

一見してどんな凄い人間でも、どんなダメ人間にもいろいろな幅のなかで得手不得手というものがあると私は信じてます。紙のテストに出ない才能なんぞいくらでもあって当然。学校教育というのは可能な限り各人の種々の才能を探してそこを磨こうとは言うものではあっても、人を動かす天性のカリスマや商才、芸術的能力、身体的能力の発掘などは特に杓子定規の学校教育が苦手とするもの。
だからこそ、学校ではてんで駄目でも社会に出て大成功なんて言うのが当然あるわけで、それもまた実はアタリマエのことで、驚くことでもなんでもありません。

しかし話を戻すと、数学的な理解力は単に数学の理解にとどまらず、物事の姿をあるがままに眺め、嘘に騙されないための基本的なセンスを涵養するための大切なステップ。例え難しくとも世の中で生きていくための大事な素養です。
それを、いまや実質的に義務教育と同等になっている高校教育を受ける多くの日本人から奪おうとする政策提言は全く受け容れられません。

下手をしなくてもこれは以前文部省の寺脇研によって行われた悪夢の提言「ゆとり教育」の焼き直しでしょう。

物的資源なき日本の国富は人の能力そのもの。国家の衰退を望まない人はだれもがこの提言にはノーと言って欲しいなと考える私です。

0 件のコメント: